2011/06/12

6.11 東日本大震災から3ヶ月

東日本大震災が2011年3月11日に起きてから6月11日で3ヶ月。
3ヶ月経ったからどうだということは無い、節目としては良いが、
自分の心の中には可能な限り常に東日本大震災の事を忘れないでいることが大切だと思う。

自分は気付いたら、その丁度3ヶ月目の6.11に東北に向かっていた。
5月4日に初めて名取から女川までのエリアを訪れて以来、
目の前に広がるあの衝撃は忘れられないでいる。
恐ろしいほどに破壊された建物や鉄道、そして人々の暮らしがそこにあった。
そしてその光景は、その場には居なかった故に想像でしかない当時の現実を、
あたかも何かの映画のように目の前の大スクリーンに音声を交えて流れるようであった。

あれから1ヶ月、女川より北の地域を訪れた。
復旧、復興はどの程度進んでいるのだろうか。
国会では政権ばかり気にする、国民無視の国民の代表である国会議員が全く透明性のない、
そして全くやる気のない議論を繰り広げている。

幸いにも仙台以北は放射線量が落ち着いているようで、横浜に居る場合とさほど変わらない。
私の大好きな伊豆沼をまず訪れ放射線量を確認。
これならまた冬に来れそうだ。そう思って安心した。
伊豆沼 午後から晴れた
そして南三陸から気仙沼まで走ってみた。

少しすっきりと片付きつつある場所も出てきてはいると思ったが、

津波に襲われたエリアの大半は変わらず瓦礫が散乱している。
津波が貫通した郵便局は、静かに風の音がしていた
津波を恨むかの死んだ車
病院の入り口に"危"マークが付いた車が折れ曲がっていた
公園の蒸気機関車が流れ倒れている
皮肉にも蒸気機関車の下には「志津川チリ地震津波災害30周年記念碑」
手前の水たまり 藻が多く発生していた
どんなに悲惨な出来事があっても陽は昇るし、陽は沈む
瓦礫の荒野はいつ片付くのだろうか
不気味なほどに津波の恐ろしさを感じる
こうして被災地を見ていて思うのは、津波の被害から道路一本隔てて、
運命が変わっている場所も少なくないということ。
津波に殆んどをさらわれた地域では、未だ避難所が点在し不自由な生活を送っている。
多くの場所が水道が復旧しないらしい。
ある避難所に寄ったら水のタンクが設置され手を洗ったりようになっていた。
もちろんトイレの排水もペットボトルに汲んだ水で流す。
その為か、かなりの臭いが漂っていた。
仮設住宅が建設されていてすでに入居されていた
避難所の皆さんが書いたメッセージボード
またある避難所では自衛隊の給水車が設置されたプールの様な四角いビニールの容器に
やはりビニールで覆いがされたような水の貯水場所に給水をしていた。
少なくともこの様に水は配給され、洗濯場所も設置され生活の仕組みはできているようだった。

子供たちは元気に遊んでいた。私がそんな光景を見ていると、
「こんにちは!」と元気な挨拶をくれた。
少しずつではあるが、着実にみんな元気になっている。
まだ先は長い、でも明日もまた一歩踏み出そう。